遠い空の夢 温い風を鬱陶しく思う。水分を多く含んだ空気が体に纏わりつき、雨上がり後独特の熱気に浮いてきた汗が不快だった。 濡れたコンクリートの上を歩きながら、シャツの襟元を指で引く。涼しい風を恋しく思いながら、温い風を汗で湿った胸元に送る。シャツが張り付いた感触よりはまともだが、生温い風ではこの不快感は取れなかった。ふう、零れ出た吐息に、肩から力が抜けていく。 見た目が気に入った、と選んだ服ではあったが、この制服というものは通気性があまり良くなかった。上着は既に脱いで、腕に抱えている。 (――…制服?) はて、と内心で首を傾げる。腕に持っているのは、濃い緑色の制服。 (――…こんな服、着たことも、見たことも無い) しかし体は疑問を気にするでもなく、綺麗に舗装された道を進んでいく。目的地は決まっているのか、迷うことの無い足どりだ。見たことの無い家々が並ぶ通りを抜け、いくつかの角を曲がると足が止まった。目の前にあるのは変哲の無い一軒の家。ちらり、視界が横を向き、門に付けられているプレートを見る。何か文字らしきものが描かれていたが、見たことの無い形だった。 視界が動き、今度は扉の横の壁にある黒く四角いものへと移動する。丸いボタンを押す指は、見慣れた自分のものではない。細長い、大人のような手だ。指にはいくつか装飾品が嵌められている。確か、デザインと重さが気に入って買ったものだった。 暫く待っていると、扉が開き、一人の女性が出てきた。肩までの、短い髪を軽く揺らしながら笑顔を浮かべている女性に見覚えはなかったが、この女性の作る味噌汁は美味しい事を知っていた。味噌汁なんて見たことも食べたこともないのに、と不思議に思いながら、家の中へと入っていく。少し狭く感じる室内は、どうやら靴を脱いで入るらしい。爪先の尖った黒い靴を脱ぎ、綺麗に掃除されたフローリングの上を歩く。 前を歩く女性が階段を指差し、何かを喋っていたが、聞いたことの無い言葉だ。何を喋っているのかはわからなかったが、上に行けということかと、憶測を立てている間に体は狭い階段に足をかけていた。後ろかから掛けられる声に軽口で答えながらも、奇妙な感覚がずっと纏わりついて離れない。いつもより高い視界を珍しく思いながら、二階の、とある部屋の前に立つ。ドアノブにゆっくりと手を伸ばす。ドアを開けたら、取り合えず文句を言おう。こんな所にまで呼び出して、何の用ですか、とでも。初めて訪れた家だけれど、このドアの向こうにいる人間を、自分は知っていた。 ノブを回し、ドアを引く。小さな部屋だ。ベッドに机、椅子に本棚。テレビの置かれた棚は整頓とは程遠い混雑さで、そこから伸びた線を辿ればベッドに座っている少年の姿があった。自分よりも、少し歳が上くらいか。けれど、目に映るのはだらしのない年下の少年。食い違う感覚に気持ち悪さを感じつつも、部屋の中へと体を滑り込ませる。 あちこちに髪を飛び跳ねさせた少年が喋りかけてくるが、先ほどの女性同様、知らない言葉だ。自分も同じ言葉で何かを返し、少年が眉を寄せ、口元を歪ませたのを見ると胸のうちに広がるものがあった。 暖かな、むず痒い感覚をなんだろうと思う間も無く、目の前の少年が目を細める。暫くは何をしているのかと思ったが、それがこちらに向けられた笑顔なのだと気づいて驚いた。誰かに笑いかけられるなど、随分と久し振りの事だ。 しかし、この体はその笑顔に慣れているのか、何かを口にした後に少年から視線を逸らしてしまった。もっと見ていたいのに、と少年の茶色い瞳を思い描いていると、ぱん、と鋭い音が響いた。驚いて視線を少年へと戻せば、何かを手に持ち、こちらに向けている。 カラフルな色合いの、筒のようなものだ。破裂音に身構えた体が、それを見て力を抜く。呆れ果てて痛む頭に手を当てながらも、にこにこと愉しそうに笑っている少年の顔に、先ほどから感じていた違和感が曖昧になっていく。 少年が何かを喋り、それに一言二言、自分が答えた時だ。後ろにあるドアが開き、ケーキを手に持った少女と、その後ろから付き従うように少年二人が入ってきた。 自分が来ているものと同じ制服を着込んだ少女達に、目を見開く。手にしたケーキを恥ずかしそうに、不安そうに差し出す少女に言葉が出てこない。 どういうことだと、少女の後ろに立つ二人に視線を向ければ目を伏せられた。再び、問いかける為に口を開くが、ぐい、と腕を引かれた感覚。後ろを振り返れば、ベッドに座っていた少年が、両手で手首を握っている。 ぐい、と引かれるままについていけば、先ほどまで少年が座っていたベッドに座らされた。柔らかな感触に、こんなに柔らかな寝床ならば、硬い床で寝るよりも怪我の痛みに苦しまないですむかもしれない。 悪夢に苦しむこともないだろう。 柔らかなベッドの感触に惹かれながらも、新たに部屋に入ってくる二人の少女と、テーブルに置かれたケーキに戸惑いが隠せない。 黒髪と、茶髪の少女がケーキを持って入ってきた少女の肩を励ますように叩く。すると片目を眼帯で隠した少女が上目遣いで、頬を染めながら笑った。 「ムクロ様、おめでとうございます」 その言葉だけはわかる。聞き慣れた母国語だった。何故かそのことに驚く自分を感じながら、ベッドの下に座り込んでこちらを見上げている少年へと視線を流す。 ムクロ、とだけ聞き取れたが、やはり他の言葉はわからなかった。それでも、その言葉たちが自分にとって大切で、優しいものだということはわかっていた。 ひたり、水滴の落ちる音で目が覚めた。 頬に感じるのは冷たく、硬い床だ。柔らかで、真っ白なシーツの上ではない。痛みで軋む体を起こしながら、暗い部屋の中を見回す。 水が腐ったような匂い。血や吐瀉物のこびり付いた床と壁。汚れを洗い流す為に巻かれた水があちこちで残ったまま、部屋で蹲る子供たちの体を冷やしていく。 着せられた服は、汚れた水や誰のとも知れない血が滲み、酷い状態だったが、ここにいる誰もが似たようなものだ。 ずり、傷だらけの、汚れた足を引き寄せる。震える体を抱きしめるように身を縮こませた。こうしていないと、体の全てが凍ってしまいそうだった。 目を閉じれば、浮かんでくるのは茶色い目の少年と、片目の少女の笑顔だ。もう、ぼんやりとしか思い出せないのが悲しくて、ぎゅっと強く服を掴む。あんな風に笑顔を向けられたのは、何年ぶりだろうか。もう、憶えてもいない。 ずくずくと体に走る重い痛みに、疲労の溜まった体は睡眠を欲していたが、今寝ても、あの優しい夢は見れないことはわかっていた。きっと見るのはいつもの悪夢だ。 (あの夢が見れなるなら、眠るのも怖くないのに) 綺麗な街並みは、きっと歩くだけで気持ちいいだろう。優しく出迎えてくれた女性が母親だったなら、どんなに良かっただろう。 眉を寄せて、気弱そうに笑う少年が友達だったら、片目の少女が妹だったら、どんなに愉しかっただろうか。 あんなに大きなケーキも、初めて見た。どうせなら、食べるところまで夢で見たかった。 おめでとう、と、拙いイタリア語を思い出す。理解できたのはそれだけだ。あの人達が何を言っていたのかがわかっていたら、もっと素敵な夢だったのに。 (どこの言葉だろう…イタリアじゃなかった。きっと、遠い国なんだ) そこに行けば、きっとケーキも、あの人たちもいる。 (行ってみたいな…) この冷たい部屋を抜け出して、あの湿気の多い夢のような国に。それを思えばこの痛みも、悪夢も耐えられる気がした。 (2009/06/08) |