失恋は夕日色の中で




松葉杖をついて歩くよりも、廊下の手すりに寄りかかりながら、片足に重心をかけて歩いていく方のが動きやすい。
ひょこひょこと未だギプスのついた足を浮かせながら歩いていると、通りすがる看護師のお姉さんたちに「松葉杖は?」「車椅子持ってくる?」と声を掛けられる日課だ。
「へーき。ありがとう」
にこり、笑顔と共に挨拶を返す。これも、日課だ。
気をつけてね、と笑いかけてくる看護師たちに手を振って、再びひょこひょこと歩き始める。子供からお年寄りまで、多くの人間がすれ違っていく。皆どこか顔色が悪く見えるのはここが病院だからか、それとも床やら壁の白さが反射しているからか。
入院など今回が初めての白蘭にとって、この光景は物珍しい。寝間着でこうも堂々とうろうろ出来るというのも面白い。
トイレまでの短い距離だ。入院当初はまともに歩くことさえできなかったことを思えば、大分回復している。
トイレで用を済ませ、気分よく鼻歌交じりに歩く。窓の外を見下ろせば、病院の中庭が見下ろせる。
綺麗に刈られた芝生の青さが目に優しい。窓枠に寄りかかりながら、芝生の上で遊ぶ子供やらベンチに座る老人たちやらをなんとなしに見つめる。
くあ、欠伸が漏れた。
なんというか、ほのぼのすぎて退屈だ。見舞いに来る友人達には看護師と知り合えていいじゃないかと羨ましがられたが、彼女たちは皆慌しく声を掛ける暇さえない。
白蘭ができる事といえば、挨拶を交わすか、検温時に数分言葉をやり取りする程度。可愛いなあ、とか、綺麗だなあ、と思った相手でも、彼女たちはせかせかと白蘭の病室から出て行ってしまう。
それに、一番の目的である美しい人は、彼女たちよりももっと白蘭に素っ気無い。不機嫌を隠しもしないで病室を訪れる彼の人の姿を思い浮かべて、つい溜め息が零れる。
中々この手に落ちてきてくれないと思うと、ますます魅力的に見えてきてしまうから困ったものだ。欲しくてたまらなくなる。
どうしたらあのしかめっ面が綻んでくれるのか。あの頑なな態度が軟化してくれるのか…。
ぼんやり窓に寄りかかって考えていると、ふいに視界を過ぎるものがある。反射のように視線を動かして、目を見開いた。
中庭の隅、老人が座るベンチの横を歩く白衣姿に、不自由な足が階下へと急ぐ。急ぎすぎて階段で怪我をした方の足をぶつけてあまりの痛みに悶えたが、構わず中庭に向かう。
薬品臭い建物から一歩外に出ると、目を刺す強い日差しが襲ってくる。昨日までの雨が嘘のような晴れ渡った空に目を細めながら、中庭を見回す。綺麗に刈り取られた芝生に等間隔に植えられた木。人工的な自然を歩く患者達の中に、青く光る黒髪が見えた。
白衣の上を踊る長い髪に思わず笑みが零れた。
あの艶やかな髪が手触りがいいのだと、白蘭は既に知っている。さらりと手に絡み冷たい感触を伝えてくるのがいいのだ。
あの髪がシーツに散らばる様を想像したのも、一回や二回ではない。そんな風に、誰かに思考の大半を占められている状態は初めてで落ち着かないが、ふわふわと柔らかな土の上を歩いている感覚は悪くなく。
浮ついた気持ちでいたせいか、つい怪我した方の足をつけそうになって、慌てて建物の壁に手をつく。外に出るなら松葉杖を持ってくればよかった。失敗したと、舌打ちが漏れる。
今から取りに戻るかという考えも頭を過ぎったが、追いかけている相手が向かう場所に、人影を見つけて考えを改めた。
中庭の隅、建物を背にして設置されているベンチに座っている白衣の男。陽の光を帯びてきらきらと輝く金髪に、日本人離れした顔立ち。
確か、外科の医師だ。看護師がディーノ先生と呼んでいたのを聞いたことがある。
待ち合わせでもしていたのか、向かってくる長髪の医師を、ディーノが軽く手を上げて迎えていた。それに応えるように頭を下げる男の後姿に、白蘭はくるりと背を向けた。
ベンチの置かれている場所は、中庭の隅だ。周囲に緑生い茂る木々が並んでいても、身を隠す場所は無い。
だったら、と不自由な足を使い、素早く向かう場所はベンチの置かれているすぐ後ろにある建物の窓際。
ストーカー紛いの事をしている自覚はあったが、罪悪感は二の次で、今はあの二人の会話の内容が気になって仕方がない。
白蘭の思い人である青を帯びた黒髪の医師は、白蘭自身に素っ気なく、会話となる言葉も交わしてくれないのだ。彼の事ならば少しでも知りたい、と貪欲に求めてしまうくらいには、白蘭の想いも追い詰められている。
それに。
(あんな男と二人きりだなんて!)
いかにも女受けしそうなディーノ顔を思い浮かべ、もやもやと胸にわだかまる感情がある。
つまりはただの嫉妬だった。

非常口から病室のある棟へと続く長い廊下。
まだ陽の高い時間帯にはほとんど使われることの無い通路を、壁に設置された手摺りに捕まりながら歩く。
ギプスのはまった足とは逆の足を酷使しすぎたせいか、少し足裏が痺れるような痛みを伝えてくるが、気にしている余裕は今の白蘭には無い。
焦っている自分の姿を友人達がみれば、らしくないと笑っただろう。白蘭自身、みっともないとは思っていても、ここまで自分の行動を止められずにいるのだから、抱くのは諦めだけだ。
(ボクもまだまだ、ってことかな)
うっすらと額に汗を浮かべながら、妙な高揚感に口端を上げる。しかし、先ほどの光景のせいで頬が引き連れるような感覚だ。
骸に向かって笑顔を振りまいていた男の顔を殴りつけてやりたい騒動も沸いてくる。
(これが嫉妬ってやつかな)
胸の内で暴れまわるざわざわとした感情を押さえ込みながら、目的地付近の窓へと近づく。眩しいくらいの陽の光に紛れて、ディーノと骸の後頭部が見えた。
一応、しゃがみながら窓の下へと移動する。腰を曲げた中途半端な姿勢は足にはつらかったが、それよりも目の前の二人の会話が気になった。
音を立てないよう、少しだけ窓を開ける。かすかにだが、風に乗って耳に心地よい骸の声が聞こえてくる。
窓とベンチの距離は、そう近いものではない。建物自体を囲むように作られた花壇があるからだ。大人ならば一跨ぎで越えられる小さな花壇ではあるが、植物を傷つけない為の配慮か、花壇とベンチの間には多少の距離がある。
ところどころ、聞きにくい箇所はあったが、大まかな話の内容は理解できた。医者仲間の最近の動向や、昔仲間との連絡、上司の陰口など、まあ、同僚の会話だ。
時折聞こえてくる骸の過去については、思わず身を乗り出しそうになったが、ばれては元も子もない。それに、中途半端にしゃがみこんだ体勢に、足は限界だった。
よ、っと腰を下ろし、ぺたりと尻を床につけ、足を伸ばす。薄い寝巻きでは直接床の冷たさが伝わってくる。ふるり、体が震えたが、気にはならなかった。
(6月生まれ。一人暮らし。妹がいる。チョコが好き。辛いものが苦手…)
僅かな会話の中で、これだけわかった。あれだけ自分が聞いても応えようとはしてくれなかった事を思えば、会話相手の医師に妬みも抱く。窓から顔が出せないせいで、二人の表情は見れないが、骸が自分と話している時よりもリラックスしているのはわかる。
声に混じる笑い声にむかむかと苛立ちが湧いてくるが、滅多に聞けない柔らかな声だ。折角だから記憶に残しておこう、と目を閉じて低く、落ち着いた声に耳を傾ける。
「ちょっと、貴方肘に米粒つけたままですよ。まさかそれで診察してたんですか?」
「うっそ、まじ?!あー…ほんとだ。かっぴかぴ…」
「誰も教えてくれなかったんですか?そんなにつけてて…」
呆れた様子で零れた溜め息も、親しい仲の許容を見せられているようだ。
このディーノという男、要注意だなと白蘭が一方的に敵意を抱いている相手が、ふと、会話の最中に声音を変えた。ところどころ、声の小さい部分が聞き取れないのがもどかしい。
先ほどまでの声とは違う、さらに低いディーノの声に紛れて、骸の息を呑む音も聞こえてくる。
「…まだ…を、」
「…」
身を乗り出し、窓をもう少しだけ開けるが、外の喧騒に紛れて、やはり二人の会話が聞き取りづらい。所々聞き取れる部分が、どうにも不穏だ。
(『忘れられない』、『ツナ』…。なんだ?何の話を)
嫌な予感にじとりと、こめかみに汗が滲みでる。長いことじっと身を潜めている状態も体に負担が溜まっていた。それに、昼間には人通りの全くない裏口だが、常駐している警備員は夜と変わらずにすぐ傍にいるのだ。
外から漏れ聞こえてくる会話に耳をすませながらも、ちらちらと出入り口にも視線を配らなくてはならないのは、少々嫌気が差してきていた。緊迫した会話の内容は気にかかっていたが、ここいらが潮時かと、腰を上げた時だ。
「まだ好きなのか」というディーノの声に、動きが止まった。先ほどよりも、声が大きい。喋りに熱が入っているのだろう。
堪らずに、そっと窓の下から顔を出す。骸の方を向いているディーノ横顔はまるで何かを耐えているようだった。頭頂部に毛先を跳ねさせている頭が、項垂れているようにも見える。
「アイツが結婚して、もう二年になる。子供だってできた」
「…」
「…『骸さんは元気ですか』って聞かれたんだ。驚いた。お前、結局アイツに何も言ってないんだな」
「…何を、言えと?『君が好きです』?『結婚なんて止めてください』?…言えるわけがない」
聞いているこっちが眉を顰めるような、悲痛な声に白蘭は目を見開いた。震えた声は、まるで泣いているようだった。
小さく首を横に振った骸が、深く息を吸い込むように、顔を上へと向ける。後ろからでは表情を伺えないが、きっと白蘭の望む顔ではない。
白蘭が欲しいのは、笑顔もそうだけど、こちらを見て嫌そうに歪められた、あの秀麗な表情なのだ。いつも微笑を浮かべている骸が、白蘭にだけ向ける、あけすけな感情の顔なのだ。
他の誰かに恋焦がれている顔なんかでは、決してない。
ずるり、冷たい壁を滑りながら、リチウムの床に座り込む。胡坐をかいて顔を伏せたい気持ちだったが、中腰の体勢の間にどこか捻ったのか、ずきずきと痛む足のせいでだらしなく足を伸ばすことしかできない。
後ろからは、ぼそぼそと二人の会話が続いている。
(…骸せんせ、好きな人がいたのか…)
あんな風に、誰かの前で声を、肩を震わせて、想いを断ち切れずにいる姿を晒す程に。冷やかな美貌の、その下で胸から溢れ出るほどの強い想いを抱いていたのだ。
白蘭では無い、誰かに。
「…痛い…」
ずきずきと痛みを訴えてくる胸を抑える。足だけでなく、なんだか頭も痛い。じわりと歪む視界に、情けない気持ちになった。
失恋して、泣くだなんて。
「かっこ悪すぎるよ…」





(2009/06/08)


夕日関係ない

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