買い上げたその命


子供の体を表情一つ動かさず――…いや、むしろ喜悦を含んだ目で弄くっていた研究者の中に、弱い癖に野心を抱いた愚かな男がいた。
男は金と欲の為にその仕事を選び、多少の事ならば手を汚してでも手に入れてみせるという小さな強欲さを持った男であった。与えられた仕事は、壊滅状態ながらも、高い技術力を持つマフィアの研究所での勤め。相手は子供ばかりだと聞き、自分の安全性と、弱い相手に与える暴力を想像していい仕事についたものだと口元を綻ばせもした。そして男は人目に触れずに行われている狂信めいた実験とも、呪いとも思える地下へと足を踏み入れた。


白いタイルの張られた壁は、血が噴出し付着してもすぐに水で洗い流すことができる理由で取り付けられたのだと、何度も白い壁が血に塗れ、その度に次の日には白く戻っているのを見て知った事だ。
誰かに教えられた学んだのではない、経験して身に付けた知識は酷く血生臭いものだったのだと知ったのは、この研究所から抜け出した後のこと。
随分と――先のことだ。
今の、骨と皮に近い、薄汚れた身形の少年には、その血生臭さは常に鼻に付き纏う日常の臭いだった。
彼等から与えられるものは多くが苦痛と恐怖であり、僅かに与えられるパンと水だけが子供達をこの世に繋ぎとめる楔。逃げよう、と思うには子供達は耐えられぬ程の疲労をその弱りきった体に蓄積させ、そして細い手足には起き上がるのさえ困難なほどに重く感じる鎖があった。
白く、細い手首に巻かれた皮のベルトを見つめる度に、少年は目の色を濁らせていく。元の色が判別できぬ程に色褪せているその皮が、少年と同じように囚われていた子供達の血で染まっていることを知っていた。
ざらり、舌を伸ばして嘗めてみると、錆びた鉄よりも苦く、既に何も無い腹の底から込上げてくるものがあった。
それ程に、少年は飢えていた。
使い古されたメスで体を切り刻まれ、悲鳴を上げる子供の声を子守唄に眠ることさえできるようになった、そんなある日の事。
新しい男が子供達が監禁されている研究所へとやってきた。
薄汚れた白衣は他の研究員と同じ。ただ、少し違ったのは子供達の実験を見詰めている目にかすかな怯えがあったことだ。自分たちのしていることへの罪悪感でも抱いているのか。新たに投与された薬の作用か、熱と吐き気に苦しんでいた少年の目がその男に留まった。
我等がファミリーの為だ。そう何度も耳に蛸ができるほどに云われ続けた。少年よりも幼い少年少女は素直にその言葉を信じつつも、自身に与えられる、仲間に与えられる苦痛に耐えられずに精神を病んでいくものが多かった。数年前から研究所に囚われている少年にとってもそれが異様であり気味の悪いものであると知っていたが、既にこれ以外の風景を思い出せなくなっていた少年はそれを日常のことだと自身の精神を麻痺させていた。
そうしなければ生きてはいけなかった、そんな場所だ。
怯えた色を薄茶色の瞳に浮かべた男は、げっそりと痩せ細った子供達に近づくことを嫌悪している癖に表向きは実験に参加できたことを、ファミリーの役に立てることをべらべらと薄っぺらい言葉を羅列させて喜んでいた。研究という二文字しか脳に刻まれていないような大人達の中、その男のそうした瞳の色と行動は酷く骸の癇に障った。
自分たちをモルモットとしか見ない研究員たちに対する感情はこれ以上にない位に最悪なものではあったが、自分たちを見て、一瞬哀れみと恐怖を浮かべて見せた男は骸に憤怒の情を思い起こさせた。どろどろと、まるで焼かれた肌のように何かが心の内から剥がれていく。
凝り固まっていた何かが溶けていくようだと思い、そして己がこの地獄で生き残る為に心を凍らせていたのだということに気がついた。そして、凍っていたものが溶けていく様子に少年は恐怖した。
折角、凍らせていたものが溶けて表層に現れてしまう。
潰れた喉でさらに悲鳴を上げる子供のしゃがれた声に、びくりと骨の出張った肩が震えた。断続的に聞こえてくる甲高い獣のような声に歯が鳴る。少年はぎゅ、と自分の細い体を抱きしめた。
そう、そうだ。
自分は元々は臆病で軟弱な質であった。
針を刺されるだけで泣き喚き、体を刻まれた痕の痛みに醜く命を懇願する。そんな卑屈な子供であった。ぞくり、背筋を走った震えに少年は口元を歪に形作った。弧を描く唇は正しく笑みを浮かべてはいたが、青い瞳に浮かぶ色は何もかもを焼き尽くす程に膨れ上がった怒りの焔。
悲しみは当の昔に形を潜め、そしていつのまにか怒りに食い尽くされていた。氷解した心は些細な事で少年を怯えもさせたが、それを上回る憎しみはじりじりと少年の精神を焼いていた。
憎い、憎い。
ただそれだけを頭に浮かべながら、少年は野心を抱く兎に声をかけた。
「ぼくと、取引をしませんか」
今では怯えを隠しもしない男は震えた少年の声に眉を潜めたが、理性とは程遠い狂乱めいた研究所の中で、にこりと微笑んだ少年はまともに見えたのだろう。
それとも、長い間陽の光を浴びていない、青白い肌の少年に何か思う所があったのかもしれない。両の蒼い目を親しげに歪めてみせた少年は、ふらりと魅了されたように近づいてくる男の愚かさに、思わず祈りを捧げたくなった。

――ああ、神様!人を堕落させてくれてありがとう!




(2008/11/4)



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